+ 風の波紋 +
いつだったか、一晩だけ寝た女が言った。
「あなたは優しい人ね。どんな人にでも甘い言葉を囁いてくれる……こんな私にでも好きだって言ってくれる」
俺は服を探しながら、そう、とか、ふぅん、とか適当に相槌を打った。
「だけど同時に冷たいわ。誰に対しても優しいって事は、誰に対しても冷たいって事よ」
俺、博愛主義なのよ、と袖を通しながら返したら、女はその晩で一番キレイに笑った。
「その言葉、十年後も偽りなしに言えるかしら? ……ぼうや」
するりと寝台から抜け出し、俺の頬に軽く口付けた。ぼうや、と言ったのが気に食わなかったが、見つめる瞳の色が母親とそっくりだったから何も言わなかった。
そのまま会話もなく別れ、その女と再び会う事もなかった。その後の消息を、知りたいとも思わなかった。
バナーの村へ出向いていたセリオ達が予定を繰り上げて帰ってきた。瞬きの手鏡を使わずにラダトから歩いて帰ってきたらしく、屋上にいたシーナは出張組が帰還する様子をちょうど見下ろしていた。
先頭に立つセリオとナナミが妙に興奮気味だと思ったら、人数がいつもより多い事に気付いた。一、ニ、三、四、五、六、……七人。
その中に懐かしい顔を見かけた。新緑の布を頭に巻き、黄の縁取りをした赤い服。手に持った長い棍。
屋上を飛び出て、全速力で階段を駆け下りる。目的の人物とは、ちょうど一階のホールで顔を合わせる事になった。
手摺に手をかけて身を乗り出す。すでに何人かが騒ぎで集まって輪を作っている。その中に埋もれた人物。
「よお、久しぶり」
シーナの掛けた声に気付き、アシナは顔を上げて軽く手を振った。
三年以上会っていなかったというのに、トラン共和国の英雄はその面影一つをとっても全く変わっていなかった。穏やかで、けれど意志のはっきりとした口調も、纏う雰囲気も当時のまま。興奮して話し掛けるセリオの肩越しにかつての仲間の姿を見とめても、つい昨日会ったばかりのように平気で溶け込む。
真の紋章を宿す者は彼の時を止めるという。その事を知ってはいたが、その影響の及ぼす範囲は身体だけではなかっただろうか。
アシナはその内身の時も止めているように見えた。
それとも永遠の中では三年も一日も変わらないというのだろうか。
姿を見た途端に全力疾走した疲れがどっと出て、ふーっと手摺にもたれ掛かった。短い階段をゆっくりと下りて、輪の中に加わろうとした。
だから人の輪から目を離し、前方を見たのは偶然だった。
………その一瞬に気付いてしまったのはどうしてだろう。
階段を下りた、すぐ先にある約束の石板。レックナートから新しい天魁星・セリオに託されたものだ。その守人として預けられたレックナートの愛弟子。彼の、ルックの表情が普段と違い柔らいでいた。
その程度だったら、極まれにだが見かけるものだった。しかし、ルックと人垣の中にいるアシナの視線が交わった瞬間。
口の端を軽く上げる程度の微笑。それは明らかに、いつも見せる人を小馬鹿にした笑みとは違った。そしてそれに返すように浮かべられたアシナの笑み。
まるで二人の間には何も無いような、親密な空間。踏み入れてはいけないような、そんな気がして、階段を下りようとしたままの足が動かなかった。
「え……」
シーナは僅かな驚きと共に瞬きをした。けれど次に見た時には、その空間は跡形も無く消え去っていた。アシナは囲む人垣と話し、ルックは興味がなさそうにそっぽを向いている。
それはまるで幻のような瞬間だった。
けれど、それは確かに一瞬の内に交わされた再会の祝い。言葉も要らず、触れ合いすら必要としなかった。視線と少しの動作だけで形を成す、他人には理解らない二人だけの合図。
ざわり、と胸の奥が騒いだ。それが何だかわからなかったけれど、足取りだけはしっかりしたままシーナは人垣の中に紛れ込んだ。きっと顔は強張っていたに違いない。
波紋の広がる水面を覗き込んでいるようだ。耳から入る言葉が素通りする。自分の口が紡ぐ言葉を理解できない。
結局、その後何の話をしていたのか覚えていなかった。
図書館でルックを見かけた。
入り口から遠い机で、一人魔法書を読んでいる。目立たないようにしているつもりらしいが、シーナにとってはその一角だけが浮き上がって見えた。遮断された空気がひどく目立つ。
せっかく天気は雲一つ無い快晴だというのに、室内に篭って不健康極まりない。
近づいて行くと、ルックはちらと一度だけシーナの顔を見て、また書物に視線を落とした。無視を決め込むのはいつもの事なので気にしない。
隣の席にかけて組んだ腕に顎を乗せる。不機嫌そうなルックの顔を見上げた。
「ルックって、」
話し掛けても魔法書から目を離さない事は予測できたが、やはりつまらない。
「あまり人と関わるの好きじゃないよな」
「わかっているならどっか行ってくれる? 邪魔なだけだよ」
それでも話は聞いているらしく返答は返ってくる。
可愛くないな。そう思いながらも、ルックに構っている自分を薄く笑った。
「でもあいつは例外なわけ?」
どんな細かな動きも見逃さないぞ、と構えて観察する。ルックは首を傾げシーナの方を見た。
誰のこと?
突然あいつ、と言われてわかるはずがない。一人合点していた自分が馬鹿らしく思えて苦笑した。
「坊ちゃん。アシナ。アシナ・マクドール」
「ああ……彼」
あの時と同じように、ルックはうっすらと笑った。その笑みが自分に向けられていない事がシーナには口惜しい。
「さあね。シーナの想像に任せるよ」
再び魔法書に視線を落とし頁を繰り始める。
言葉は素っ気ないのに雰囲気が柔らかい。予想通り、けれど期待はずれの感情を持て余してシーナは溜息をついた。
「俺、ルックって誰にも馴染まない奴だと思っていたんだけどなぁ」
「シーナだって人のこと、言えないんじゃないの?」
え、と言った言葉は黙殺された。魔法書から目を離さず無感情の声が語る。
「シーナは一見誰にでも馴染んでいるように見えるけど、一線以上は誰にも踏み込ませてない。誰に対しても同じ距離を保っているのは僕と同じだね。
でも、表面は受け入れているように見えるから、僕より余計に質が悪いんじゃない?」
歯に衣を着せない物言いに反論しようと口を開いたが、言葉が出なかった。半ば開いた口を閉じルックの横顔を眺める。負け犬の気分だ。
目が文字を追う様を見ながら、思った以上に長い睫毛に気づいた。
頁を捲る音だけが辺りを支配した。図書館内には他に人がいるはずなのに、そんな気がしない。ルックの周辺だけは、切り取られたように独立した空間が敷かれているのではないだろうか。そんな気さえする。目の前で魔法書を読むルックだけが現実味を帯びていた。
だんだんに減ってゆく残り頁を見ながら衣擦れだとか、細い呼吸だとか、そんな些細な音を聞いていたら、持て余していた気持ちが透明になってきた。
たぶん、ルックに言われた事は以前から自分で気付いていた。誰にも馴染まず、誰にも己の領域に踏み込ませないルックの姿勢は、シーナの姿勢と通じるものがあった。外見は違っても内身は同じ。
同類―――。そうは思っていなかったか。
しかし、ルックは“特別”な誰かを見つけた。たぶん、そんなルックに嫉妬したのだろう。心を許せる者を見つけたルックを、シーナは妬ましく思った。
自分一人で抜け出すのはずるくはないか?
誰の手も借りず一人で立ってきたではないか。同じ穴の狢だろう―――?
ここ数日シーナの心を悩ましていた問いの答えは見つかったが、憮然とした気持ちだけは残った。
「なあ………」
なんと声を掛けて良いのかわからず、呼び掛けだけで止まる自分が情けなかった。そんな自分を気にも介せず書物に没頭するルックが小憎らしい。
結局何も言えずにずるずると時間だけが過ぎていった。
「シーナ」
いつの間に読み終わったのか、閉じた魔法書を手に持ってルックが隣に立っていた。
「人の一生なんて十人十色なんだから、型にはめる事なんて出来ないよ。僕は僕のしたいようにするし、シーナもそうすれば良い。だから……これ以上僕には関わらないで」
言いたい事は言った、とルックは踵を返す。
読み終えた本を棚に戻しに行くルックの後姿を見て、シーナは唐突に気付いた。
なんだ。
俺も“特別”を見つけているじゃないか。
こんなに誰かに執着している自分は初めてだ。
何故か無性に可笑しくなってシーナは笑い出した。周りの人間が咎めるような視線を送ってくる。
ルックがこの場に帰ってくる前に立ち去ろう。これ以上立ち入るのは危険だ。他人に縛られるなんて自分らしくない。そうなる前に自ら切り捨てよう。
飄々とした足取りでその場を後にする。入り口で振り返ると、ちょうどルックが戻ってきたところだった。
深みに嵌る前に抜け出そう。
そうは思ったけれど、もう手遅れじゃないか。そう嘲笑っている自分もいることにシーナは気付いていた。
開いた扉の外は雲行きが怪しくなり始めていた。上空で風が唸りをあげている。
どうせなら嵐になれば良いのに。
そう思いながら、シーナは大きく伸びをした。
end
1999/09/17初出 ・ 2001/10/11改稿
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