+  狂った時計  +



 その日の朝はとても寒くて、近頃暖かくなっていた分逆戻りしたような加減だった。窓辺に近寄るだけで、外の寒さをうかがわせる。
 今日の寒さは格別だ、そう思いながらシーナは窓を開けた。そして、空気の清々しさもまた格別だ、そう感じた。
 手早く身支度を終え、時計にちらと視線を走らせて自室を出る。
 早朝だったせいか、ほとんど人に会わなかった。遠くで早朝の稽古をしている(おそらく元青騎士団長以下の元団員達だろう)声が聞こえる。
 あくびを噛み殺しながら、シーナはホールに下りた。遅刻した理由を、今日はどのように言い訳しようか、そう考えながら集合場所に着いたものの……
 そこには誰もいなかった。
 そもそもの集合をかけた軍主のセリオも、その姉のナナミも、お守り役を指名されたビクトールも、そしてルックも。
 がらんと無駄に開けた空間に、シーナは未だ完全には覚醒していない頭を捻った。

「明日グレッグミンスターへ、マクドールさんを迎えに行くから」
 と、同盟軍の軍主であるセリオ自身に通達された。つい昨日の事だ、よく覚えている。何がそんなに嬉しいのか、喜色満面だった顔つきもはっきりと思い出せる。
 集合場所は、バナーの村まではテレポートで行くので、ビッキーの前。時刻は……自室を出た時には、すでにその時刻になっていた……と思う。視界の端でとらえた時計の針がどの位置にあったか、今となっては自信がない。
 遅刻して置いて行かれたかと考えたが、目の前にいるビッキーは、まだ夢の中の様子だ。では、時間を聞き間違えたか? もう一時間後だったとか。まさかとは思うが、実は明日だったとか。
 傍目からすれば冷静に見せていたが、頭の中は混乱して上手く転がらない。
 あれこれ考えた挙句、結局、とりあえず少し待とう、とシーナは側の壁に寄り掛かった。


 早起きは三文の得と言ったっけ。
 いつもよりゆっくりと朝のひと時を楽しんでから、ナナミは扉を開けた。階上の弟の部屋を目指す。
 体内時計が確立している為か、毎朝同じ時刻に起きる。それがどうした事か、今朝は普段よりも早く目が覚めてしまった。
 弟を起こしに行くには少々早すぎる気がして、常日頃気にしていた部屋の花瓶を変えてみたり、読み散らかした料理の本を本棚に整理してみたり、そういったちょっとした事を一気に片してみた。
 それでようやく普段セリオを起こしに行く時間になった。
「セリオー! 起きなさーい!」
 ナナミが声をかけると、セリオは眠そうに枕を抱きかかえて布団に後戻りする。
「んー、ナナミ……もう少し眠らせて……」
「何言ってんのよ! 今日はグレッグミンスターまで行くんでしょ?」
「あー……」
「マクドールさんに会いに行くんじゃなかったの?」
 それでようやく布団から這い出てきたセリオは、枕元の時計を無意識に手に取った。夢の中の頭は良く働かない。状況を理解していない、ふわふわとした笑みを浮かべ、言った。
「……今日はいつもより、ゆっくりなんだね」
「は?」
 ナナミは、寝ぼけ眼で時計を手にしている弟を振り返った。
「どういう事? グレッグミンスターへ行く日はいつもこの時間じゃない」
「そう……?」
 はい、とセリオはナナミに時計を手渡した。そしてそのままスコンと眠りに落ちる。
「ちょっとセリオ。いい加減に起きて……」
 セリオの肩を揺するナナミの手が凍りついた。
 視線も、開いたままの口も凍りついた。
 一瞬の空白。と、その後の大音量。
「ウソー?! もしかして私の時計……!」


「珍しい事もあるもんだね」
 待つ事に専念して、しばし。シーナの視界の端に、緑の影が現れた。
「ルック」
 部屋から直接跳んで来たのか、直前まで全く気配に気付かなかった。
 素早く身を起こして、よう、と軽く挨拶する。
「シーナが遅刻しないで来るなんて……今日は雨?」
「ははは……ところでルック、今日の集合時刻って、いつだっけ」
「………」
 短い沈黙と、自分を見つめるルックの視線が痛かった。
「……そう。間違えたんだ。ただ早く来過ぎただけなんだ」
「どうにも」
 その通りみたいだ。そう答えて、話題を変える事にした。
「そういや、他の連中は?」
「そう言えば……」
 真夜中まで飲んでいる遅刻の常習犯のビクトールはともかく、ナナミと、そのナナミが毎朝起こしているセリオがいないのはおかしい。
「もしかして、ルックも……」
「くだらない事言わないでよ。何で僕まであんたと一緒にされなきゃいけないのさ」
 ルックはシーナの頭をロッドの先で小突いた。それでも多少不安になったのか、集合時間をシーナに確認してきた。
 ――結果、二人が確かめ合った時刻は一致した。
「………」
「間違いないよな。じゃあ、どうして他の連中は来ないんだ?」
 首を傾げたシーナは、そこでふと気付いた。
「……ちょっと待てよ、俺の記憶が正しくて、なのに早く来すぎたって事は……」
「時計が進んでたって事じゃないの?」
 小馬鹿にしたようにルックは鼻で笑った。
「そんなの気付くかよ。昨日の夜までは合ってたんだぞ?!」
「簡単に狂うような時計を使っているから、悪いんだよ。もう少し性能の良い時計を選んだら?」
「そういうお前はどこの使ってるんだよ」
「時計なんて僕には必要ないよ。いつだって風が教えてくれる」
 さも当たり前のようにさらっと言い切り、ルックは壁に寄り掛かった。
「いつ狂うか定かでない機械を使うより、そっちの方が信じられるよ」
 ほーう、とシーナは意地の悪い笑みを浮かべた。
「それなら俺は、絶対に間違わない生きた時計を選ばせてもらおうか」
「は?」
 疑問符をつけた表情で見上げるルックに、シーナはずいと顔を寄せた。壁と腕でルックを挟み込むように両手を置く。
「……何の真似だよ」
「別に。俺の時計は狂い易いみたいだから、ぜひとも狂わない時計を一つ側に置いておきたいと思ったんだけど」
 シーナの陰になり、ルックの顔には影がさしている。眉を寄せ、密着してくるシーナの身体を押し戻そうとした。
「無理無理。……おっと、切り裂きは無しだぜ? 流血沙汰は、まずいよなぁ?」
 ムッとする目には、にっと笑みで応え、シーナはさらに顔をルックに近づけた。
「……何すっ…や…っ」
 反論は最後まで言わせなかった。
 触れるだけでは済まない口づけを交わし、さらに硬直した身体を優しく抱き込んだ、……つもりだった。
 唇が離れた瞬間に起こった、春一番のような強い風圧に吹き飛ばされた。気付いた時には、シーナの身体は対面の壁に勢いよく打ち付けられていた。
「……切り裂くばかりが、風の力だと思ったら大間違いだよっ」
 怒り心頭といった様子でぐいと袖で口を拭うと、すぐさまルックは緑の法衣をひらめかせ、風に消えた。

 残像を追うように、ぼんやりと見つめていると、遠くから慌しく足音が近付いてきた。
「遅れてごめんなさい! あたしの時計、遅れてたみたいで……」
「……あれ? シーナ? 何してるの?」
 仲の良い姉弟が、壁際で座り込んでいるシーナを不思議そうに覗き込んできた。
「はは……いってぇ……」
 虚しくも笑ってみたが、思い切りよく打ちつけた後頭部を抱え込んだ。ずきずきと痛む辺りをさぐると、案の定大きなこぶが出来ている。
「ど、どうしたの? シーナさん」
「大丈夫? シーナ。……ところで、ビクトールとルックを知らない?」
「ビクトールはどうせ、寝過ごして遅刻だろ。ルックは……」
 と、シーナの言葉を遮るように、どんと肩が叩かれた。
「よう、遅れたな。すまん、すまん」
 悪びれた様子も無くビクトールが現れた。大きく叩かれた場所に、先程の衝撃と相まって激痛が走った。様子のおかしいシーナに、ビクトールが目を向ける。
「どうした、シーナ」
「…いーや、何でも。……ルックは今日は休み。機嫌悪いみたいだから、無理にせっつくのは止しといた方が良いぜ」
「えー、ルックさんがいるといないじゃ、全然違うのに」
「昨日は機嫌良さそうだったんだけどなぁ。いったい、何が原因?」
 口々に問い質してくる姉弟に、まさか直接的な原因が自分がした事だとは、シーナにはとうてい言えず。
「…時計だよ、時計。ナナミの時計が遅れていたのも、俺の時計が進んでいたのも、ルックの時計が正しかったのも、みんな含めて時計が原因」
 狂った時計が生み出した、短いけれど二人きりの時間。それさえ無ければ、ルックの機嫌が悪くなる事も、自分の背中が痛む事も無かったはず。
「え、どういう事? ねえ、ねえシーナさんてば!」
 好奇心を前面に出して、ナナミはシーナにまとわりついた。その横でセリオはビッキーを起こしにかかっている。
「全部……時計のせいさ」
 見えないように舌を出して、シーナは薄く笑った。



end
2000/03/20初出 ・ 2001/10/12改稿

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