+  休日  +



 それは、ある休日のこと。


「ああ、坊ちゃん、ちょうど良い所に帰って来ましたね」
 勝手知ったるグレッグミンスターの屋敷の扉を開くと、聞きなれた声と見慣れた姿に出迎えられた。
 ティーポットとカップを一脚載せたトレイを手にして、彼の付き人は曇り一つない笑顔を浮かべている。
 台所にいるとばかり思っていたので、少し驚いた。
 アシナが扉の前で戸惑っていると、どうしました? というように目で尋ねてきた。何でもない、と首を振って、グレミオが安心するように笑って見せた。
「…ただいま、グレミオ」
「おかえりなさい、坊ちゃん」
 もう何年も続く、短いやり取りが気持ちを穏やかにさせる。それは、共に過ごした時間の積み重ねがあってこそ起こり得る作用だ。
 上りかけていた階段を引き返し、グレミオはアシナの前に立った。
「ルック君がいらしてますよ。借りていた本を読み終わったとかで……何でしたか、確か今坊ちゃんの部屋に下巻があったでしょう?」
 ――ああ、あれか。
 頭の中で皮製の表紙を思い浮かべて、アシナは頷いた。
「そう言えば、そろそろ上巻を読み終わる頃だったな。……それで、ルックは?」
「今、お茶を持っていこうと思っていたところです。坊ちゃんの部屋でお待ちですよ」
 示すように、グレミオはトレイを少し掲げた。
 動きに合わせて、ティーポットから微かな良い匂いが漂う。
 ……カップが一脚しかないのが気になったけれど。
「グレミオはいいよ、僕が持って行く」
 夕飯の用意をよろしく、と声をかけて、アシナはグレミオからトレイを受け取った。


 自分の部屋ではあったけれど、遊び心でノックした。予想はしていたが返事は無い。
 片手でトレイを支えて、器用に扉を開けた。
 一時的な部屋の主は、当たり前のようにベッドの上で寛いだ体勢を取っていた。
「……ルック?」
「お邪魔してるよ」
 本に熱中している様子に控えめに声をかけると、それでも返事は返ってきた。もっとも、本を読み進める目と手に中断する気配はない。
 らしい態度に苦笑して、けれど音を立てないように扉を閉めると、ベッドの近くに腰を下ろした。トレイはサイドボードには置かず、床に直接置いた。
 ――近過ぎず、遠過ぎず、今の自分達にはきっと、この位の距離が似合っている。
 ベッドの縁に背を凭せ掛け、ティーポットを傾けた。
 漂う香気が、部屋の中へ控えめに広がっていく。
「……何で栞がこんな位置にあるんだよ。全然読んでないじゃないか」
 熱すぎる紅茶を冷ましていると、唐突に背後から声がかかった。
「この頃、遠征が増えたからね。読む暇が無かったんだ」
「お人よし。少しくらい突っぱねれば良いものを……利用されているだけじゃないか」
 口調から、ルックが顔を顰めている事が想像できた。
 見れば彼は憤慨するだろうが、お互い顔を合わせていなかったから、ほんの少し口の端を持ち上げて笑った。
「セリオはそういう考え方はしないよ」
「あのお気楽軍主はそうかもね。でもこの場合、本人がどう思っているかは問題じゃないよ」
 当人達がどう考えようと、トランの英雄を引き連れ回している事に変わりは無い。
 同盟軍の軍主に請われて、まだそう遠くない過去の英雄が動く。年若いが、軍主にはそれだけの影響力があるのだ。民衆はそう考える。
 これは――
「周囲からすれば、同盟軍の良い宣伝じゃないか。シュウも、だから黙認しているんじゃないの?」
「それ位は考えるだろうね」
「……それで良い訳?」
 ――自分の思惑とは違うところで、自分のとった行動が利用されているだなんて。
「別に構わないよ」
「どうしてそういう事が言えるんだよ?」
 耳元で声を聞いて、アシナは肩越しに振り向いた。
 いつのまにか、ルックは読書を中断していたらしい。本を開いてはいるが、既に目は文を追っていない。
 アシナはその様子を面白そうに見ながら答えた。
「僕には僕なりに自分勝手な考えもあるし」
「……?」
「僕なりの利点があるって事」
「……何」
 焦らすようにはっきりと語ろうとしないアシナに、ルックはおそらく無意識に髪をかきあげた。
 流れを変えたその髪を、アシナは摘みあげる。自分より明らかに色素の薄い髪を、光に透かして見た。
 手の内にある紅茶と、似たような透明感を持っている。
 自分を見つめる瞳に笑いかけた。
「ルックと会えるじゃないか」
 ……その時のルックの表情と言ったら。
 唖然としたような、困惑したような、様々な感情が混在した、そんな微妙な表情をルックはした。
 気の利いた嫌味が出てこなかったのか、珍しく何度も口を空回りさせる。その様子をアシナは意地悪く笑みをたたえながら見ていた。
「……………………くだらない」
 十分すぎるほど時間が経ってから、ルックは呟いた。
 吐き捨てるような口調だったものの、逸らした翠の瞳と淡く染めた頬は、真意が他にある事を明確に表していた。
「馬鹿みたい……そんなくだらない理由で」
「そうかな」
 そうだよ、と睨めつけながらルックは頭を抱えた。それきり黙りこむ。
 手の内の紅茶を温かいと感じながら、アシナは一口、二口含んだ。

「……あんたが」
 独り言なのか、聞かせるつもりが無いのか、くぐもった声でルックは呟いた。
「たった一冊の本も読み終われないくらい、忙しいって言うなら……」
「ルック?」
「むこう向いてて」
 振り向こうとしたアシナを、ルックが止めた。そして再び小さな声で言葉を紡ぐ。
「……そんなつまらない理由で、あんたにそんな手間を取らせているって言うなら……いちいち来なくていい、ずっとここに居ていいよ。
 ……僕が行くから」
 ――僕が会いに行くよ。
 小さくなって最後には消え入ってしまった声をいとおしく思いながら、アシナは声を掛けた。振り向かく事はせずに、そっと紅茶を差し出す。
「ルック」
「……何」
「いつでもおいで」
 視界の端の、カップを受け取る指が、一瞬震えた。
「しばらくはグレッグミンスターに居るから」
 返事はなかなか返って来なかった。

 窓から差し込む光が角度を変えた頃。
 空になったティーカップと共に返された言葉は。
「……今度は冷めない内に飲ませてもらいたいね」
 再びティーポットを傾けながら、アシナは頷いた。
「それじゃあ、良い葉を用意しておくよ」


 それはある休日のこと。



end
2000/08/29初出 ・ 2001/10/13改稿

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