+  理由は要らない  +



 何を言う訳でもなく、彼は一緒にいてくれた。

 遠征する時は言うに及ばず、率先して参加する筈も無い宴会や、決して意見を述べる機会の無い会議の時、そして酷く人恋しい時。
 それは師であるレックナートに言いつけられたからなのか、それとも、それとは別の理由があったのか、アシナには判別がつかなかった。
 ただはっきりとわかる事は、その存在に――どんな時もルックが側にいてくれたという事実に、幾度となく励まされた事だ。
 ルックは、本当に自分からは何も語ろうとしなかった。話し掛ければ必ず反応を返してはくれたが、そうしなければ自ら周囲に交じろうとは、まずしない。騒ぎに巻き込まれる事はあっても、ほとんどがルックにとって不本意な参加だっただろう。
 それがわかっていたから、色々話を聞いてみたいと思いながらも何となく話し掛けづらく、何かしら理由を持った、例えば伝達を携えているような時以外、話す機会など無かった。
 思えば、ルックほど同じ時間や空間を共有していながら、言葉を交える回数の少なかった仲間はいなかっただろう。


 特別用事など無かっただろうが、ルックはよくアシナの部屋で本を読んでいた。

 それは、洗練されたとはとても言いがたかったけれども、この古城では数少ない窓ではあった。ルックはその窓からの眺めが気に入っていたようで、気付くとその窓枠が彼の定位置になっていた。
 読み止しの本をそのままに、静かに湖面を眺めている横顔が、とても印象に残っている。
 屋上に次いで高くに位置していたし、何より人の出入りが制限され少なかった事が、ルックが好んでこの部屋に出入りしていた理由だと思う。
 時に構わずルックは現れたが、必要以上に広い自室を持て余していたアシナにとっては、むしろありがたい事だった。

 だから、“それ”はもう習慣になっていたと言っても良い。
 マッシュから渡された書類に目を通しながら、時おりそっと窓辺を確認する。ある時はそこにルックの姿が残っている事に安心し、ある時は音も無く去っている事に落胆する。
 いつからか、癖になってしまったこの事を、ルックは気付いていただろうか。
 聡い彼の事だから、きっと気付いていただろう。それでも、なお声の一つも掛けてくれなかったという事は、ルックがそれで十分と判断したからなのだろう。
 広い空間に独り取り残されないだけでも、感謝しろというつもりだったのかもしれない。
 そう思っていたから、アシナもただルックが居てくれるだけで感謝していたし、それ以上はあえて望もうとは思わなかった。
 だから、ルックから話し掛けてきた時は、ある意味とても驚いた。

 ……急激に膨れ上がる解放軍を維持する為の資金の調達に、行き詰まっていた所だった。現状を正しく把握してはいたが、改めて紙の上で確認させられると、うんざりする。
 机上で考え込んでいても意味は無いとわかっていたが、やらずにはいられなかった。
 今思い返せば、確かに疲れが溜まっていたのだろう。机に肘を付いて、書類の上に走る文字を目で追うのに躍起になっていた。
 そんな時。

「根を詰めていても、集中していなきゃ効率が悪いよ。……少しくらい、休めば?」

 不意に紙面にかかった影を振り仰いで、そこに見出した顔に驚き、その言葉に驚いた。
 何も言い返さないアシナの顔を見て、何でそんな意外そうな顔をするんだよ、と、彼――ルックは顔を顰めた……


「……そう言えば、そんな事もあったね」
「もう覚えていなかっただろ?」
 ベッドに横になったまま、アシナは苦笑した。
 ルックは、その様子をこの部屋の彼の定位置から横目に睨んでいる。
「やっぱり、ルックは大して気に掛けていなかったんだ」
 けれども、それが今の二人の出発点となったのだから、何がきっかけとなるかわからない。今となっては、ルックの気紛れに感謝してもしたりなかった。
 そんなアシナの心中を知らず、ルックは不満そうに零す。
「一方的にそんな言い方をされると、癪に障るんだけど」
「じゃあ、覚えていた?」
 混ぜ返してみると、ルックは読んでいた書物を脇へ追いやった。そして憮然とした面持ちで、言い募る。
「覚えているに決まっているじゃないか。
 その後、せっかく忠告してあげたのに、もう少しやれば一通り終わるからって、結局夜半までかかって、」
「そうそう、それでルックが手伝ってくれたんだよね」
 見兼ねたんだよ、とルックが訂正する。
 その様子と、その時の様子がだぶって、可笑しくて笑った。不平を並べながら、それでも熱心に手伝ってくれたルックが思い出される。
「翌日は寝不足だったのに遠征に連れ出されるし……感謝してもらいたいね」
 つらつらと文句を言うルックに、アシナは素直に感謝の意を表した。
「うん、感謝しているよ。……ありがとう」
 言って、そして、少し考え込む。
「……そうだね、今だから教えてあげようか」
「? ……何を?」
 突然の意味深なアシナの言葉に、ルックは眉を顰めた。直感的に、嫌な予感でもしたのかもしれない。

「本当は……、あの時かかった時間の半分で済むはずだった、……って事」

 ルックの様子を面白そうに見守りながら、アシナはゆっくりと言葉を紡いだ。予想通り、ルックの目つきが徐々に変化する。
「……どういう事」
「一度終わった書類を、元の書類の束に戻しておいたんだ」
 顔を強張らせて、ルックはアシナを凝視した。その目に浮かぶのは、怒りとも呆れともつかぬ感情。
 アシナはベッドから身を起こし、窓辺へ歩み寄った。
 近づいた自分を、ルックは瞳の色はそのままで、見上げる。窓辺に腰掛けたまま動かない彼に、そっと顔を寄せて、言った。
「ルックには理解らないかもしれないけど。……あの時、僕は本当に嬉しかったんだよ?」
 それこそ、わざわざ一度終えた仕事を繰り返す程に。
 もっと側に居て欲しくて、気を引きたくて。
 ――どうしたらもっと彼の方から話し掛けてくれるだろう?
 必死に考えて、そして普段ならば絶対にしないような行動を取ってみた。そんな心の機微を、ルックは理解してくれるだろうか。
 ルックは表情を消そうとして失敗した、そんな困った顔をしていた。
 アシナはルックの隣に座ると、彼の肩口に額を埋めた。
「わからなくても良い。……でも、これだけは覚えておいて。
 ルックが一緒に居てくれた事、本当にそれだけで、……僕は僕でいられたんだ」
 抵抗がないのを良い事に、アシナはルックの身体を軽く抱きしめた。
 冬に近い空気が窓の外から流れ込んでくる。
 だからなおさら、お互いの体温が高く感じられた。
 背中におずおずと伸ばされた手を感じた。
「……らしくないね、そんな回りくどい事をするなんて。付き合った僕が馬鹿みたいじゃないか……。まったく、つまらない事してくれる」
 短い沈黙の後に、ルックはのろのろと言葉を吐いた。少し身体を引いて、アシナの顔を覗き込む。
「だから……これでちゃらにしてあげるよ」
 静かに告げて、そして、攫うように短い口付けを落とす。
 驚きに瞬きを繰り返すアシナを一呼吸分見つめた後、ルックは一気に身体を剥がし、窓の外へ身を躍らせた。
 はっとして、咄嗟に伸ばしたアシナの手は何も掴む事は出来ず、空を掻く。すぐに窓から身を乗り出し探したが、ルックの姿は風に溶けてもう見えなかった。
 残されたのは、空っぽの右手。

 窓の外は月も無い真暗闇。
 何も映さないトラン湖の水が眼下に広がる。
 髪の毛一筋さえ掴めなかった手のひらを、アシナはじっと見つめた。
 あの時も今も、自分は手探りでルックの心を探している。微かに触れたそれは、すぐにするりと逃げ出してしまう。
「でも良いよ、別に」
 もうあの頃とは、決定的に違うのだから。
 ルックに会いたいと思う事に、話し掛ける事に、触れる事に。……それを妨げるものは既に存在しない。
 理由は要らない。
 ただそう思うだけで、それが理由になるのだから。
 それで許してくれるという事も、知っている。

 窓を開けておこう。
 ルックはここから見える景色が好きだから。
 明日はきっと晴れる。



end
2000/11/16初出 ・ 2001/10/13改稿

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